出奔 8
「ベーレンス夫人はどんな様子だって?」
寝台に入りながらディアルが尋ねる。
「いちど目を覚ました時にナターリエ嬢がいないのに気付いて、女官から家出のことを聞き出したそうよ。それでまた半狂乱に・・・」
アルメリーアは額を手で覆う。
「いまは、侍医が与えた薬で眠っているとか・・・朝まで起きないだろうと」
「気の毒にな。夫からは婚姻無効の訴えを起こされ、娘は行方不明とは。取り乱すのも無理はない」
「ええ、でも・・・」
夫人の小間使いへの乱暴な振る舞いは目に余るものだった。
普段はナターリエがあのような扱いを受けていたのだろうか・・・。
黙り込んだ彼女をディアルは腕の中に抱きしめた。
「また悩んでるの?言っただろう、背負いすぎてはいけないと」
「ええ・・・」
「人は時には不運に遭うものだよ。それは誰にもどうしようもないことだ」
アルメリーアは夫の腕の中で目を閉じ、無言で彼にしがみついた。
確かだと思っていたものが、ある日突然崩れ去る・・・これから先、自分たちの間にもそんなことがあるだろうか。
ディアルは彼女の雰囲気がいつもと違うのを感じ取った。よほど参っているとみえる。
ぴったりと寄り添い、髪を撫でて甘やかすように励ました。
「ほら、ナターリエ嬢のことは心配いらない。マティアスが探しているんだから・・・すぐに元気で戻ってくるよ」
「ええ、そうね」
「ベーレンス夫人も一晩休めば落ち着くだろう。父上と私で手を打つからベーレンス伯爵の目論見は崩れるさ。だから彼女が路頭に迷うこともない」
「ええ・・・」
「どう?なにも悩むことはないと思わないか?」
アルメリーアは顔を上げ、不思議な笑みを浮かべてディアルを見つめた。
そして彼の唇にそっと唇をつける。
唇を離した彼女は小さな声でささやいた。
「あなたをとても愛してる・・・」
彼は満足そうな笑みで応えた。
「愛しすぎてしまって怖くなるの・・・いつかあなたが、私を愛さなくなったらと・・・」
ディアルは大きなため息をついた。「きみがそんなお馬鹿さんだとは知らなかったよ」
彼女の首の後ろに手を回し、引き寄せて唇を押し当てる。
そのまま体の向きを変えて彼女に覆いかぶさった。
「そんなことは二度と考えられないようにしてやろう・・・頭をよぎりもしないように」
そう言うや彼女の口を口でふさぎ、慌てる彼女の声も動きも甘い攻撃で封じ込めた。
夜半過ぎ、眠りに落ちていた二人の部屋に小さく声をかける者があった。
ディアルは寝台を出て長衣を羽織り、扉を細く開けて知らせを聞く。
アルメリーアも気配で目を覚まし、戻ってきた彼に尋ねた。「どうしたの?何か・・・」
「マティアスからの使いだ。ナターリエ嬢は無事だよ。ひとまず王立修道院に連れていったそうだ」
「ああ・・・」彼女は安堵の息をついた。
「言っただろう?心配いらないって」彼女の頭を抱き寄せながら言う。
「ええ・・・ええ」
「ベーレンス夫人の女官にも伝えさせたから、朝になれば彼女も知らせを聞くだろう。そしたらすぐに回復するさ」
「よかったこと。本当に・・・」
一日中つきまとっていた胸のつかえがようやく下りた気分だった。
「さあ、もうおやすみ。明日もまた忙しいぞ・・・かわいいお馬鹿さん」
抱きしめられてからかわれ、彼女はようやく安らいだ気持ちで瞼を閉じた。
彼らは知らなかった。
皆が寝静まった頃に目を覚ましたベーレンス夫人は、身支度をしてひとり部屋を抜け出した。
そうしてそのまま夜陰にまぎれ、馬を盗んで王城を出ていった。
夜が明けて女官が寝台を覗くまで、誰一人それに気づかなかった。