小説「光の物語」第81話 〜冬陽 8〜

小説「光の物語」第81話 〜冬陽 8〜

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冬陽ふゆび 8

「なんて・・・賑やかなんでしょう」
ナターリエは半ば呆然とつぶやいた。
初めて見る王都の広場には人々が行き交い、店からは呼び込みの声、元気な女性たちが店を切り盛りする姿もそこここで見られた。
「まずは見て回りましょうか。何か気になる店があればお知らせを」
見る物全てが新しいナターリエはマティアスに導かれるまま歩く。
家出をした日にも王都を歩きはしたが、暗い明け方にびくびく通ったのと同じ街とはとても思えなかった。


外出の日、マティアスは彼女を王都のマーケットに連れてきた。
広場に設けられた市場には大小さまざまの店が立ち並び、買い物や見物に訪れた人々で賑わっている。
そして、広場の中心にあるのは王都の大聖堂だった。


「ここがクリスティーネ嬢が婚礼を挙げる聖堂ですよ」マティアスは建物を示してそう告げる。「王立修道院からもすぐでしょう」
二人は修道院から歩いてきたのだが、たしかに大して時間もかからなかった。
それを知ったナターリエは何となくほっとする。
外出を恐れていた彼女には、大聖堂へ行くことが随分な大ごとに思われていたのだった。


その日、修道院に迎えに来た彼に手を取られ、じつに数ヶ月ぶりに彼女は門から外へ出た。
外に出ることへの不安は残っていたものの、彼は猫のことを話し続けて彼女の気持ちを楽にしてくれた。
門から出た時は泣きそうな気分だったが、一歩進むうちに少しずつそれも消えていった。
広場へ着く頃には自分がなぜ怖がっていたのかもわからなくなっていた。


「名物のパイだよ、お嬢さん。王都に来たならこれを食べないと」
「きれいな髪に髪飾りはいかが?」
「手作りのキャンドルだよ」
あちこちからかかる商人の声にナターリエはきょろきょろしつつ歩みを進める。


「まあ。いい匂い・・・それにとても人気がありますのね」人がたむろする店の前で何気なくつぶやく。
マティアスは「食べてみますか?」と言い、店主と気軽にやりとりして何かを買った。
渡された紙包みには色とりどりの砂糖ぐるみをまとったアーモンドが入っている。
買い食いなどしたことのないナターリエは戸惑うが、恐る恐る一口食べるや「まあ、おいしい!」と声をあげた。
「冬のマーケットの定番ですよ。食べ始めると止まらないから注意です」マティアスは笑う。
「本当においしいわ・・・」
目をまん丸にしてお菓子に夢中になる彼女をマティアスは微笑みながら見守った。


名物のパイで昼食にするころには、ナターリエの気持ちもかなりほぐれてきた。
その後もあちこちの店に立ち寄っては、ちょっとした物を見て彼女は喜ぶ。
木彫り細工の店で彼女の白猫によく似たブローチを見つけたときは「信じられないくらいそっくり」とくすくす笑った。
「あいつにも見せておやりなさい」とマティアスはそのブローチを買い、遠慮する彼女の襟元にそっとつけてやった。


「外国から来た最上の布地だよ。旦那、かわいい奥さんへのプレゼントにどうです」
向かいの店の主人が二人に声をかけてきた。
マティアスは「また今度な」と笑い、ナターリエをともなってその場を後にする。
彼は苦笑し、彼女は気まずさと恥ずかしさに頬を赤らめた。


市場を抜け、広場からも近い王都の湖に彼女を案内する。
この湖は人々の憩いの場であり、今日も湖畔には日差しを楽しむ人々がそぞろ歩いていた。
「ここも初めてですか?」
マティアスの問いに頷きながら、ナターリエはクリスティーネが以前ここのことを話していたのを思い出した。婚約者のリヒャルトと一緒に散策した、あんなきれいな湖は見たことがないと。
確かに美しい。青い水面を渡ってくる風を吸い込むと胸がすくような気がする。


「ここも素晴らしいが、シエーヌの湖の美しさは見事でした。あの色合いは筆舌に尽くし難い」マティアスは彼女の故郷の、彼女が知らない湖を語った。「あそこには行かれないと。道中の山道は少々厄介ですがね」
一緒に・・・と言いかけて彼は口をつぐんだ。いったい何を言おうとしているのだ。

「ええ、行ってみたいですわ・・・」
ナターリエは心からそう答える。皆が素晴らしいと言う湖にも、彼女は母に禁じられて行ったことがなかった。今日の外出のように、世界には自分が知らない素晴らしいことがたくさんあるのかもしれないと彼女は思った。


「ありがとうございます」ナターリエはマティアスに微笑む。「今日はとても素敵な一日でしたわ。こんなに楽しかったのは初めて」

礼を言われたマティアスはくすぐったい気分だった。これくらいのことでこんなに喜ぶなんて、彼女は本当に不自由な人生を送ってきたのだ。「ご友人の婚礼にも行かれそうですか?」

「ええ・・・まいりますわ」小さな決意を込めた声で答える。「クリスティーネ様にお会いしたいですもの」
クリスティーネの花嫁姿はどんなに美しいだろう。彼女とリヒャルトは互いに夢中だった。きっとその日の彼らは幸せに輝いていることだろう。
そう思うと、ナターリエは友人に置いていかれるような寂しさを胸に覚えた。

でも、その日もマティアスが一緒にいてくれる。


「それはよかった。ご友人も喜ばれるでしょう」
そう言う彼自身も実は喜んでいた。
女性とこんなにくつろいで過ごしたことはついぞなかった気がする。

亡くなった秘密の恋人とは一緒に明るい場所へ出るなどかなわなかった。
彼女を失った後は、彼は女性とはルールを心得た関わりしか持たなかった。
ナターリエと自分とはいかなる関係でもないが、それでも陽の下で幸せそうな彼女を見るのは心地よい。


「本当にきれい・・・今まで見たことがないくらい」
ナターリエはきらきらと輝く水面を見ながらそう言った。
「ええ、そうですね・・・」
マティアスは湖の照り返しに輝く彼女の横顔と、風に揺れる後れ毛を見ながらそう答えた。