王都 28
「まあまあ、ナターリエ様・・・あまりご心配なさらずに」
お茶を運んできたアーベルはそうナターリエに声を掛ける。
ナターリエは修道院の居間で長椅子にかけ、隣にはテレーザが付き添っていた。
「ええ、そうよね・・・」
小さく答えるナターリエにテレーザも声をかける。
「そうですとも、ご安心なさいませ。マティアス様にお任せしてよかったのですわ」
二人のいたわりにナターリエはほっとしたが、それでもまだ迷いは残っていた。
本当に自分でゲオルグに対処しなくてよかったのだろうか・・・?
ゲオルグからの手紙が届いた晩のことをあらためて思い出す。
あの日、ナターリエは薄暗い部屋で自分自身を恥じていた。
父と母が自分を責める声が聞こえるようだった。
役立たずの弱虫、負け犬。遊び人に家宝を投げ渡した愚か者。
愚弄されてやり返す気概もないのか。
どうしておまえはそうなのか。
押し寄せる記憶にナターリエの体はこわばった。
そうだ、ゲオルグに会わなければ。
そして今度は全部うまくやる。
ゲオルグと話して、家宝を取り戻して、彼の不実に毅然と抗議して。
恥ずべき失態をなんとか取り消さなくては・・・。
息もできない思いでなかばそう決意した。
その時、部屋の扉をどんどんと叩くものがあった。
どきりとしたナターリエは手にしていた宝石箱を取り落とす。
呆然としたまま導かれるようにドアを開けると、そこには白猫オスカーがちょこんと座っていた。
「・・・オスカー・・・」
いつも通り部屋に入ってきたオスカーはころりと床に転がった。
気を抜かれたナターリエも床にかがみ込み、ふかふかのお腹をそっと撫でる。
喉を鳴らすオスカーの満足げな顔を見るうちにナターリエの緊張はやわらいだ。
ふと見ると、床に散乱した宝飾品の中に小さな白猫のブローチがあった。
マティアスが広場のマーケットで買ってくれたものだ。
彼が襟元につけてくれたオスカーそっくりのブローチ・・・。
片手を伸ばして拾い、小さな宝物をじっと眺める。
マティアス。
・・・彼はなんと言っていただろう・・・?
たしか、そう・・・ゲオルグに接触されたら知らせてくれと言っていた。
アーベルやテレーザにも知らせるようにと。
ナターリエの心をさまざまな感情が行き来した。
人に頼るなんて情けない。自力で汚名を濯がねば。
そうしないと両親が許してくれない・・・愚かで弱くて役立たずの娘のまま・・・。
父母の記憶が蘇り、再び重い胸苦しさに襲われる。
でも、マティアス・・・。
領主の実務を教えてくれた時のことを思い出す。
彼は彼女に飲み込みが早いと言ってくれた。
自信を無くしがちなナターリエを優しく励ますように。
これまでずっとそうだったように。
両親の記憶は彼女に無価値感だけを与える。
だが、マティアスの記憶は彼女に希望をくれるのだ。
彼はシエーヌからたくさんの手紙をくれ、領主として学ぶべきことを教えてくれた。
家出した彼女をここに運び、たくさんの人と出会わせてくれた。
彼のおかげで両親の事件以来初めて外出することができた。
マティアスと眺めた湖、彼の髪をかき乱していた優しい風。
柔らかな日差しを背にした彼はどこか悲しげな瞳で彼女を見ていた。
悲しげ・・・?なぜそんなことを思うのだろう。マティアスはいつも笑顔なのに・・・。
彼はオスカーをここに連れてきてくれた。
涙が止まらなくなった彼女を抱きしめ、素晴らしい女性だと励ましてくれた。
そして何より・・・『あなたを誇りに思います』と・・・。
子供たちの学びを助けたいと話した彼女に、そう言ってくれたのだ・・・。
いつしかナターリエの目からは涙が溢れていた。
ぼろぼろ涙をこぼしながら立ち上がると、部屋を出てすぐ隣のテレーザの部屋に飛び込んだ。
ゲオルグからの接触を知らせるために。
また両親の記憶が蘇り、暗い渦に飲み込まれぬように・・・。
「あの晩は驚いたでしょう・・・?ごめんなさいね」
夜中に叩き起こしたことをあらためてテレーザに詫びる。
「ご心配には及びませんわ。侍女とはこういう時のためにいるのです・・・もちろん毎晩では困りますけど」
ナターリエが小さく笑うのを見てテレーザもほっとする。
あの晩のナターリエの混乱ぶりは気の毒なほどだった。泣きながら支離滅裂な話をするばかりで・・・。
しばらくしてようやく落ち着いてからも、ナターリエの思い込みはなかなか消えなかった。
自分でゲオルグに会ってすべて解決しなくてはならない、そうでないと情けない弱虫のままだと。
「もしあなた様がお一人でこの男に会われたら、それこそ情けないことになりますよ」
翌朝、ゲオルグの手紙を読んだアーベルはそう言った。
「この手紙の書きよう。いかにも実のない・・・どうとでも取れるほのめかしで、あなた様をおびき出したいのが見え見えではありませんか」
横にいたテレーザもぷんぷんしながら付け加えた。
「そうですとも。未婚の令嬢に対し、夜に一人で暗い庭園に来てくれだなんて・・・まともな殿方なら決してしない物言いですわ」
家宝のブローチはとっくに売りさばかれているだろうし、そうでなかったとしてもナターリエの元に戻ることはないだろう。
そうアーベルから言われたナターリエは改めて落胆したが、自分の過ちの結果として受け入れるしかないと思った。
それはそれとしながらも、数日経ったいまもナターリエはまだ考えていた。
やはり自分は意気地なしではないか?ゲオルグに抗議すべきではなかったのか・・・?
ナターリエがそう口にすると、テレーザはやれやれというような笑みを浮かべた。
「勇気にも出しどころがあるのです。そこを間違えてはいけませんわ」
それを聞いたアーベルは笑い出し、温かな手をナターリエの背に添えた。
「テレーザの申す通りです。だんだん見極められるようになりますよ」
頭にはまだ釈然とせぬものを残しつつも、ナターリエの心は不思議な安らぎに包まれていた。