小説「光の物語」第144話 〜王都 30 〜

小説「光の物語」第144話 〜王都 30 〜

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王都 30

その日修道院のナターリエを訪ねたマティアスは、数日ぶりの彼女の姿に不思議な安らぎを感じた。
そしてゲオルグのことを伝えた時、彼女が示した悲しげな様子にマティアスの心はざわついた。
彼女はまだゲオルグに未練があるのだろうか?
立場ゆえに密会にこそ応じなかったものの、本心では・・・。


ベーレンス家のブローチを渡すと、彼女はにわかには信じられぬ様子で一心に見入っていた。
マティアスはその宝を取り戻してやれたことに安堵した。
きっと彼女の慰めになるだろう、すでに多くを失ってきたのだから。
ブローチの特徴を以前に詳しく聞いていたのが幸いした。
それからゲオルグが宝石をばらして売りさばかなかったことも。


ゲオルグがナターリエを呼び出したのは、彼女を言いくるめてブローチの譲渡証をせしめるためだった。
一目でわかる名品だけに、まともな値で売るには証書が必要だったのだ。
さもなければ盗品として買い叩かれることになり、強欲なゲオルグはそれでは満足できなかった。
ゲオルグのなじみの質屋を締め上げたところ、そう主人が白状したのだった。


しかもそれだけでは済まなかったかもしれない。
人目につかない夜の庭園などに彼女が一人で行っていたら・・・。
ゲオルグの気まぐれ一つでどんなひどい展開にでもなり得たのだ。
そう思うだけでマティアスは胸がむかむかした。



「もう二度と、見ることはできないのだと思っていました・・・」
泣きながらナターリエはブローチを胸に抱く。
「実に幸運でした・・・。あなたの宝です、大切になさい」
嗚咽するナターリエの両肩に手を置くと、彼女のぬくもりと小さな震えが彼の心も震わせた。


うつむいた彼女のきめ細かな頬、つたい落ちる涙・・・なんと美しいのだろう。
マティアスはなかばその光景に見とれていた。
その柔らかさと温かさが触れなくとも伝わってくるようだった。
彼女を抱きしめ、その涙を唇でぬぐえたらと彼は思った。


「・・・このブローチはベーレンス家の宝です。取り戻してくださって、どんなに感謝してもしきれません」
誠意のこもった涙声のささやき。
彼女が幸せだと彼の心も満たされる気がする。
こんな感覚を以前にも覚えたことがあった。いつか、ずっと昔・・・。
「でも私には・・・あなたがくださった猫のブローチの方がずっと価値があるのです。あなたという方にお会いできたことが、何にも変えがたい私の宝ですわ・・・」


セシリア。
満開の藤の花の下、彼の求婚を承諾してくれた恋人。
マティアスの前に突然亡き恋人の面影がよみがえった。
彼女が流した涙、恥じらうような微笑み、静かな決意を漂わせた瞳。
紫色の花影で、あの時確かに彼女と自分は幸福の絶頂にいた。
二人の未来は永遠に続くのだと信じていた。


だが、すべては汚い思惑の前に消し飛んでしまった。
自分には彼女を守ることができなかった。
彼女は知らない男に嫁がされ、外国に追いやられ、そして病を得て死んだ。
まともな弔いさえしてもらえずに。


いや、違う・・・今ここにいるのはナターリエだ。
マティアスは自分がどこにいるのかわからなくなりそうだった。
初々しい様子でたたずみ、涙に濡れた目で自分を見つめるナターリエ。
一途な瞳の彼女に何か言わなければ。
なのに動けない。声も出せない。息をすることすらも・・・。



沈黙して立ち尽くすマティアスを見て、ナターリエは「ごめんなさい・・・」と後ずさった。
マティアスははっと我にかえり、彼女に手を伸ばそうとした。
その時・・・。


「失礼します。マティアス様、急ぎ王城へお戻りください」
彼の従者がノックと同時に部屋に飛び込んできた。
「・・・いったい何事だ?王城で何か?」
よりによってこんな時に・・・マティアスは爆発しないでいるのがやっとだった。


しかし、従者が告げた知らせは思いもかけぬものだった。
「隣国ブルゲンフェルトです。かの国で政変が起こったと・・・!」