藤棚
温室のガラス越しに、ディアルがアルメリーアとキスしているのが見える。
そんな光景を見たいわけでもないマティアスは、温室に背を向けてディアルが出てくるのを待った。
「やれやれ・・・」
まったく目も当てられない惚れ込みようだ。
少し離れたところに今が見ごろの藤棚があり、その下には石造りのベンチがしつらえられている。
先の王妃へレーネが生きていた頃は、よくあそこで彼女のお供をしたものだ。
花に興味のないディアルはいつもすぐに逃げてしまったが・・・。
そのディアルが今は妻のために温室に足を運ぶとは。
そう思うと笑ってしまう。
だが、別に不思議でもないのか。
彼はあの国王陛下と王妃陛下の息子なのだから・・・。
ディアルの学友として王城に住み始めた時、彼は国王一家の明るい雰囲気に心底驚いた。
王と王妃は互いにいたわり、王子は両親のゆるぎない愛情に包まれていた。
そして新参者のマティアスにまでその温かさを惜しみなく与えてくれた。
これは何かの冗談か、たちの悪いいたずらではとすら最初は思ったものだ。
彼の育った家とはあまりに違いすぎたから。
彼の家では両親は無言でいがみ合い、その鬱積した感情を息子にぶつけることで解消していた。
彼にとって両親とは悪夢のような存在でしかなかったのだ。
そんな彼にとって亡き恋人はどれほど大きな救いだったか。
まだ実家にいた頃のこと、庭の藤棚の影で泣くマティアスを見つけた彼女は、彼のために一緒に泣いてくれた。
彼女の涙に心慰められたマティアスは次の日も、その次の日も藤棚に通った。
母に仕える侍女だった彼女も人目をしのんで来てくれた。
お互いにまだ子供だったが、恋人同士になるまでほとんど時間はかからなかった。
『大人になったら結婚してくれる?』
『でも、身分が違いすぎます・・・』
『そんなの関係ないよ。反対されたら駆け落ちしよう。結婚してくれる?』
『はい・・・マティアス様』
夢は実現し、繰り返す花の季節をともに過ごすのだと信じていた。
幼い約束を交わした藤の花の木陰。
恋人を亡くしたのち、マティアスは何年もこの花を見ることすら耐えられなかった。
王妃が病で亡くなり、国中が悲しみに包まれた年。
へレーネを慕っていたマティアスは再び深い喪失感にさいなまれた。
彼は眠れなくなった。
昼はなんとか日課をこなしたが、夜になるとへレーネのことが、そして亡き恋人のことが思い出され、悲しみと悔恨の渦に巻き込まれた。
そんな日が何日も続いた。
母を亡くしたディアルには話せなかった。
娘同然のへレーネを亡くしたアーベルのばあやにも。
誰もが悲嘆に暮れていたし、もとよりマティアスは気安く心を明かすたちでもなかった。
誰にも話せなかった。
気がつくと花の季節だった。
あの藤棚を訪ねてみよう。ふとそう思った。
恋人を失って以来ずっと避けていたが、なぜかその時は自然と足が向かったのだ。
数年ぶりに見る花は、そのたおやかな色も香りも記憶のままだった。
なつかしさにとらわれ、近くに行くまで花下のベンチにいる黒服の男に気づかなかった。
『陛下・・・』
それは喪服に身を包んだ国王グスタフだった。
『マティアスか』
『申し訳ありません、お邪魔を・・・』
『よい、こちらへおいで』
うろたえながらも促されるまま国王の隣に腰掛けた。
国王は疲れきった顔をしていた。
それはそうだろう、長年の愛妻を亡くしたのだから・・・。
二人の睦まじさを間近で見てきたマティアスは痛ましく思った。
彼らは幼なじみの初恋で、即位前からずっとともに過ごしてきたのだ。
二人は何を話すでもなくそよ風に揺れる花を眺めた。
国王と二人でかしこまっていたマティアスも、時間の経過とともにいつしか自分だけの世界に引き込まれていった。
頭上を覆う幾千の花・・・陽に透かされて垂れ下がる様は、まるで天に続く薄紫の梯子のようだ。
この花をつたって彼女のそばに行けるならそうしたい・・・。
マティアスは寝不足の頭でそんなことを考えていた。
『・・・おまえも、恋人を亡くしたのだったな』
国王のふいの呟きにマティアスはびくりとした。
今はやめてくれと思った。
外界と自分をへだてる膜が薄くなっており、わずかな刺激で崩れそうな気がしたからだ。
『・・・そのような・・・陛下のお悲しみとは比べものに・・・』
震える声でそれらしい言葉をしぼり出そうとする。
国王は手を伸ばし、そんなマティアスの頭を撫でた。
『へレーネはおまえを実の息子のように思っていたよ』
繰り返し頭を撫でながら言う。
『私も同じだ』
長い間、マティアスは人前で泣いたことがなかった。
恋人が亡くなった時でさえそうだった。
この時もなんとかこらえようとしたが、口からはその意志とは裏腹な言葉がこぼれ出た。
『私は・・・彼女にこの花の下で求婚しました』
俯いて言うマティアスの目に涙があふれた。
『彼女は承諾してくれました』
頬をつたった涙が膝にぽたぽたと落ちた。
『そうか』
国王は大きな手でマティアスの肩を抱いた。
『よくやった』
マティアスは堰を切ったように泣き出した。
そんな泣き方は子供の頃にもしたことはなかった。
顔を覆って号泣する彼を、国王は静かに抱き寄せた。
どれくらいの時間だったのか・・・彼が泣いている間中、王は黙ってそうしていてくれた。
それ以来、マティアスはまた眠れるようになった。
そしてもう藤の花を避けることもなくなった。
国王と王妃が自分を救ってくれたのだとマティアスは思った。
昔、恋人が彼を救ってくれたのと同じように。
「来てたのか」
温室から出てきたディアルがマティアスに声をかける。
「もういいのか?」
半分いやみで尋ねると、ディアルはにやりとして答えた。「ああ。待たせたなら悪かったな」
「別に」そっけない返事にディアルは笑った。
「何かあったのか?」
「ああ、急ぎの報告が・・・」
言いかけたマティアスは、ディアルの視線がよそに向いているのに気づいた。
ディアルはあの藤棚を見つめていた。
「今年も咲いたな」
「ああ」ディアルが花に気付くようになったのはアルメリーアの影響だろうか。
「母上はあの花が好きだった。もう少し一緒に見ればよかったな」
ぽつりと言うディアルにマティアスの胸も小さく痛んだ。
「すまん、なんの報告だって?」
感傷的になったのをごまかすようにディアルは急いで話を戻す。
「地方の行政官からの知らせだ。先日の悪天候で・・・」
そんな彼と並んで歩きつつ、マティアスは去り際にちらりと花を振り返る。
花はすべてを内包するかのように、静かにその房をそよ風に揺らしていた。
薄紫にけむる、なつかしい花。
永遠に色褪せぬ追憶の藤棚。