転変 9
シエーヌではマティアスが多忙な日々を送っていた。
隣国の脅威に不安がる人々のため、各地を回って士気を高める演説を行う。
流行病の時のマティアスの采配はまだ記憶に新しく、彼の言葉に人々は信頼を抱いた。
部下に命じて隣国の情報収集も怠りなく進めていた。
ブルゲンフェルト国王は政務に復帰したが、だしぬけに城を囲む反対勢力への武力制圧を命じ、結果として多数の死者を出した。
また以前から疑いを向けていた有力貴族を次々に処刑し、その後も重臣の罷免や逮捕が相次いでいるという。
隣国王の行いは明らかに常軌を逸しているが、諌めようとするものはいなかった。
彼の蛮行が自分に向けられることを誰もが恐れていた。
「まさに地獄絵図だな」
その報告を聞いたマティアスはぼそりとつぶやいた。
ブルゲンフェルトに嫁いだ従姉妹ミーネと、その夫アンゼルム公の状況もわかってきた。
公は広く人望のある人物だが、それゆえに今は国王からのしめつけが厳しくなっている。
後継者争いを警戒する国王には、公の有能さが脅威に感じられているのだ。
同じ境遇のものは他にもおり、みな突然国王に捕らえられはしないか戦々慄々としていた。
さらには、周辺諸国からブルゲンフェルト宮廷に嫁いだ者たちの現状もあった。
ヴェルーニャやガンツの姫君方、それからリーヴェニアの王女、レナーテ。
「そのレナーテ王女ですが・・・」
「なんだ?」
「以前から噂があったのです。ご夫君のグライリヒ公と過ごすことはほとんどなく、宮廷に入り浸り・・・どうやら国王の愛人の一人ではと」
「愛人・・・王女ともあろう者が?」
「はい。だた、彼女は王妃とも懇意にしているらしく」
「国王の愛人が王妃とも親しい?妙な話だな」
「ええ・・・とはいえ、あの国では何が起こっても驚くにはあたりませんが」
「違いない」
マティアスは小さく笑ったが、どうも引っかかるものがあった。
そのレナーテ王女が本当に国王の愛人ならば、彼女の身も危うくなるかもしれない。
狂乱状態の王に運命を狂わされるか、はたまた宮廷の勢力争いに巻き込まれるか。
騒乱の種にならなければいいのだが・・・。
しかしリーヴェニア王女といえば、ディアルの妃であるアルメリーアの姉だ。
アルメリーアはこのことを知っているのだろうか?
嫁ぎ先の違いか、本人の資質の違いか・・・姉妹といえど運命は実にさまざまだ。
マティアスはそう感慨を覚えずにはいられなかった。
部下たちとの話を終え、書斎に戻ったマティアスはディアルからの手紙に目を通す。
シエーヌの状況や人々の不安について、マティアスは彼にも知らせていたのだ。
そのことに触れ、ディアルからの返事にはこう記されていた。
『シエーヌの民を安堵させる最も良い方法は、領主であるナターリエ嬢が結婚して領地に戻ることであろう。
彼女もまたそれを希望している。
早々にしかるべき者との縁談を進めるゆえ、彼女の結婚交渉の条件をまとめておいてくれ。
それでおまえに異論がないのなら』
それを読んだマティアスは純然たる怒りを覚えた。
だがすぐに、腹を立てる筋合いなど一つもないのだと気づく。
思いを伝えてくれた彼女に自分は何も答えなかったのだ。
彼女と自分は領主と管理者以外のなにものでもない。
もしもあの時、彼女に伝える言葉を見つけられていたら・・・。
マティアスの脳裏に最後に会った時のナターリエと、あの瞬間彼を襲った恐ろしさが同時に蘇った。
涙で頬を濡らしながら自分を見つめていた彼女。
幸福に似た感情は、しかし瞬時に暗闇に飲まれるような恐怖感にとって変わった。
セシリアを守れなかった自分。彼女を失った後の、あの暗い絶望の日々・・・。
あの苦しみを再び味わうことになったら?
いや・・・だめだ。とてもそんなことはできない。
ナターリエに似合いなのは、臆せず彼女に向き合える男だ。
ちょうどセシリアといた頃の自分のように・・・。
そう思いきわめてみても、彼の心はさまようことをやめなかった。
ナターリエが他の誰かと結婚する?
そうして、その男と二人でここに戻ってくるというのか・・・?
想像するだけで、マティアスは砂を噛むような思いがするのだった。