小説「光の物語」第161話 〜転変 17 〜

小説「光の物語」第161話 〜転変 17 〜

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転変 17

ナターリエは憂鬱な気分で机に向かっていた。
王子妃からシュレマー家の次男、エルマーとの文通を勧められたためだ。
秀才肌の彼は僧院での学びに夢中で、縁談などどこ吹く風らしい。


「なんて難しいのかしら・・・」
ナターリエは思わずそう独りごちる。
相続権のない貴族は縁談を求めるものらしいのだが、エルマーはそれには当てはまらないようだ。
結婚話を進めるのがこんなにも悩ましい仕事だったとは。


エルマーが結婚に興味がないとしたら、彼に手紙を送るのもためらわれる。
貴族の次男であり、かわいらしいパトリック少年の兄であり、物静かな勉強家だというエルマー。
良い縁になるのではと、彼女なりに一生懸命考えたのだが・・・。


とはいえ、王子妃に仲立ちを頼んだ話を簡単に放り出すわけにもいかない。
王子妃は言っていた。
『エルマーは医学にとても興味があるらしいわ。いまも僧院で医療者の手伝いをしているそうよ』と。
ナターリエがいる王立修道院にも付属の病院があり、図書館には医学に関する貴重な蔵書もあった。
エルマーへの手紙にはこうした話題がふさわしいのかもしれない。


ナターリエは綴るべき文章を考え始めたが、頭の片隅では以前マティアスと交わした手紙のことを思い出していた。
あの頃も話題選びに四苦八苦していたが、マティアスのためにと心を込められるのは幸せなことでもあった。
あんな気持ちで誰かに手紙を書くことが再びあるだろうか?
果たしてエルマーがその相手になるのだろうか・・・?
ナターリエはそんな疑問を心に覚えていた。



マティアスはシエーヌで多忙な日々を送っていた。
戦に備えて態勢を強化するための打ち合わせや、街の守りを固める手配。
さらには民衆に多くの情報を周知する必要もあった。
食料や救護所のこと、街から避難する場合のこと、身近なもので作れる武器のこと・・・無辜の市民への被害を最小限に抑えるため、マティアスは力を尽くしていた。


その中でマティアスはあることに気づいた。
シエーヌの狭くて曲折した道路は悪天候に弱いものの、敵の進軍を妨げる効果がある。
隣国の脅威にさらされ続けた地ゆえの造成らしい。
以前は区画を整理して道を広げたいと単純に考えたが、それだけでは足りないようだ。
マティアスは諸事の合間にシエーヌにふさわしい街をあれこれ構想する。


そしてその思考はいつも、以前ナターリエと交わした会話に行き着くのだ。
シエーヌの道路について語った彼に彼女は言った。自分もシエーヌの子供たちの学びを助けたいと。
その時に彼の胸を満たした感覚は今も記憶に新しい。
彼女を誇らしく思う気持ちと・・・そして、長いことさすらっていた彼自身にも甲斐ある未来が見えたような・・・。


だがそのナターリエには、隣国王の庶子ハイシュ伯爵からの縁談が降って湧いているという。
ディアルからその件を知らされたマティアスは頭に血を昇らせたものだ。
結婚を口実にシエーヌをブルゲンフェルトに併合し、地歩を固めるのがハイシュ伯爵の狙いだろう。
ナターリエをそんな策略の道具にしようなど、欲深な恥知らずめ。


しかも、そこまでわかっていながらディアルは手紙に書いて寄越したのだ。
『全面戦争を避けるためなら、彼女とハイシュ伯爵との縁談にも一考の価値はある。
よって、王族が相手の場合の結婚条件も協議してまとめるよう』


先日ようやく条件協議の結果をまとめたところなのに・・・重い心を抱えながら。
人の気も知らないであの野郎・・・マティアスはむかむかする。
いや、ディアルのことだ。すべて察した上でこちらを挑発しているに違いない。
その手に乗せられてなるものか。



「マティアス様」
中庭に出たマティアスに馬番の少年ハンスが駆け寄ってくる。
少年の頬は紅潮し、抑えきれない興奮が全身にあふれていた。
「やあ、ハンス・・・どうかしたのか?」
「マティアス様。ぼく、結婚するんです」
「なに?・・・誰と?」
「もちろんクララ・・・あの、厨房で下働きしてる彼女です。マティアス様も以前ご覧になった・・・」
「ああ、あの子か」
以前ハンスが下働きの少女に見惚れていたことをマティアスは思い出す。
あの時はハンスの片思いだったが、うまく関係を育めたようだ。


「しかし随分急じゃないか?」
「ええ・・・でも決めたんです。ぼくが彼女を守るって」
半分自分に言い聞かせるようにハンスは口にする。
「彼女、とても怖がってたんです。もしブルゲンフェルトが攻めてきたら、若い娘はひどい目に遭わされるって。それに戦で死ぬとしたら、その前に好きな人と一緒になりたいって」
反対しても無駄だとばかりに勢い込むハンスに、マティアスは昔の自分を見る思いがする。
若くて、無謀で、愚かで・・・しかし愛と希望が心に満ち溢れていた。


「そうか、おめでとう。幸せにな」
祝福された少年は弾かれたように顔を上げ、瞳を輝かせた。
「ありがとうございます!・・・あ、あの、結婚式にマティアス様をご招待しても?」
思わぬ申し出に眉を上げるマティアスにハンスは続ける。


「マティアス様が励ましてくださったおかげで、クララに話しかける勇気が持てました・・・だから、ぜひ来ていただきたいんです」
少年のみずみずしい純粋さに触れ、マティアスの顔には自然と笑みが浮かぶ。
なぜか一瞬遠い昔の藤の花と、その時仰ぎ見た青空が彼の脳裏に蘇った。
「光栄だよ。日取りが決まったら知らせてくれ」
「やった!」


マティアスは先頃聞いた報告を思い出していた。
シエーヌ領内での結婚が急増したため、婚姻の手続きを簡素化したいというものだった。
きっとハンスとクララのような二人が大勢いるのだろう。
恋人を思って自分を奮い立たせる彼らにマティアスは眩しいものを覚える。
そう、これこそが結婚というものだ・・・たとえ先にどんな苦難があったとしても。


「私よりよほど立派だ」
弾むように駆けていくハンスの後ろ姿を見送りながら、マティアスはそう呟いた。